【東日本大震災④】気仙沼の幸運な事例から考える、可能性を上げる重要性。

【東日本大震災④】気仙沼の幸運な事例から考える、可能性を上げる重要性。

もろたびを見てくださって、ありがとうございます。こっけ~です。

今年も3月11日がやって来たので、東日本大震災について書きたいと思います。

 

これから掲載する写真はところどころにモロが写っています。

不謹慎だと眉をひそめる人もいるかもしれませんが、まだ漢字を読むのが難しい子供たちにも写真を通して震災のことを知る切っかけになってほしいと思い、載せることにしています。

 

※ 昨年度までの記事はこちら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮城県・気仙沼市

宮城県、気仙沼市。

宮城県の北東端に位置し、昨年記事に書いた南三陸町と同じく太平洋側はリアス式海岸になっている。

地形を活かした養殖漁業だけでなく、親潮と黒潮がぶつかる三陸沖は世界三大漁場の一つであり、気仙沼港は日本に十三しかない特定第三種漁港の一つだ。

そのため、人々は古くから海沿いに暮らしてきたし、幾度の災害にも遭ってきた。

それでも、生きる糧を得るため、気仙沼は魚を取り続けてきた。

そんな気仙沼市には、1901年開校と長い歴史を持つ水産系の高校、気仙沼向洋高校がある。

 

 

 

! ここから津波の写真や描写を含みます。ご注意ください !

 

 

 

2011年 3月 11日

 

そしてあの日、気仙沼市に津波がやってきた。

 

 

 


(河北新報から引用)

津波により漁船用の燃料タンクが倒壊して重油が流出して出火、俗に言う「津波火災」が発生した。

油は水に浮くため、気仙沼湾内の海面を移動しながら延焼面積は広がり、ついには東北最大の有人島である大島にも燃え移った。

逃げ場のない島では島民たちが総出で延焼を食い止めたという。

 

 

 


TBCテレビから引用)

海が見えない新明戸地区では、津波が津谷川をさかのぼって進み、7名の死者と1名の行方不明者が出た。

河口から4kmも離れたところまで遡上したという。

 

 

 


(河北新報)

高齢者が100名以上入所していた介護老人保健施設「リバーサイド春圃(しゅんぽ)」では、地震の後、職員たちが車椅子の入所たちを2階へ避難させた。

土台と合わせて2階床面の高さは7mを超すが、津波は車椅子の高齢者たちを飲み込んだ。

車椅子で倒れてしまうと自力で起き上がることができず、職員の眼の前で沈んでいってしまった。

第二波に備え、残った人を屋上に避難させようとしたが、体はずぶ濡れの上に外は雪が降っていて低体温症の危険がある。

そして、建物の周りは津波火災によって火の海になっていた。

この施設では59人が亡くなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

震災遺構・気仙沼向洋高校

海のすぐ近くにあった、気仙沼向洋高校。

現在は気仙沼市東日本震災遺構・伝承館となっている。

 

 

 

 

 

伝承館で映像や展示を見た後、実際に震災遺構へ入ることができる。

校舎は被災した状態のまま保存されているが、ここが学校だったとは到底思えない惨状だ。

 

 

 

この場所は、震災前に電気磁気室として使用されていた教室だ。

津波によって自動車がベランダを破壊して教室に突っ込んだ。

驚くのは、この部屋は地上3階にあるということだ。

 

 

 

そして、地上4階にはレターケースがある。

床から25cmのところまでが特に錆びている。

つまり、津波はこの高さまで到達したという痕跡であり、そこは地上から12mの高さだ。

 

 

 

その校舎の4階の外壁は、コンクリート製にもかかわらず大きくえぐれている。

これは、海側にあった冷凍倉庫が激突したものだ。

 

 

 

そんな気仙沼向洋高校には、地震当時約170名の生徒、そして教員と工事関係者がいた。

生徒は教員が近所の避難所であった、海抜8mの地福寺へ移動した。

しかし、それでもまだ危ないと判断し、2kmを歩いて海抜32mのところにある中学校へと移動したおかげで全員無事だった。

また、残りの教職員と工事関係者は屋上へと避難し、こちらも全員無事だった。

 

 

 

 

 

 

 

「可能性」を上げる


気仙沼市観光協会 階上支部から引用)

気仙沼向洋高校のすぐ近く、杉ノ下地区にある海抜11mの高台は、市の指定避難場所になっていた。

しかし、高さ18mの津波が襲い、避難してきた約60名が犠牲となった。

気仙沼向洋高校の生徒たちも、もっと遠いところへと移動している最中に津波が来ていたら巻き込まれていたかもしれないし、

校舎の4階を削った冷凍倉庫がもしも正面から衝突していたら、屋上へ避難していた人も無事ではいられなかったかもしれない。

 

 


CNN.co.jpから引用)

語弊を恐れずざっくり言ってしまえば、津波を逃れることができた人は「運が良かった」のだと思う。

そして、どれだけ最善を尽くしても、時には死んでしまうのが災害だ。

しかし、それらは全て完全な運任せではない。

より遠く、より高く逃げれば、津波から逃げられる可能性が高まる。

日頃から備えておく防災グッズや非常食があれば、生き残る可能性が高まる。

 

 

 

これは、決して災害だけではなく、人生全てに当てはまることなのだろう。

どれだけ勉強を頑張っても受験や就職がうまくいくとは限らない。

どれだけ事前に調べて準備をしたとしても、急なアクシデントがあればひっくり返る。

 

 

 

だけど、何もしなかった人よりも、考えて行動した人の方が、良い方向へ進む可能性は絶対に高くなる。

100%の保証はなくても、1%でも自分の人生が良くなるような生き方をしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、1歳になった我が子の可能性も、少しでも広げてあげられるような親になりたいと切に思う。

 

 

 



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