【東日本大震災①】野蒜のトモダチ作戦から考える、日本人としてのあり方。

【東日本大震災①】野蒜のトモダチ作戦から考える、日本人としてのあり方。

 

もろたびを見てくださって、ありがとうございます。こっけ~です。

今回はずっと書いてみたかったテーマである、東日本大震災について書きたいと思います。

 

 

 

 

あの日から、もう11年が経った。

 

 

東日本大震災

 

このたった6文字の言葉は、一定以上の年齢の人であればまず知らない者はいない言葉だろう。
そして、その言葉の次には灰色や茶色がかった風景がセットで思い浮かぶのではないだろうか。
2ヶ月前の紅白に出場した今を煌めくアーティストは知らなくとも、11年前のこの惨事は多くの人の心に刻み込まれている。
これはもう、一過性の流行り廃りなどではない、歴史的な出来事だ。
実際に、今の小学校の社会の教科書には記載されていて、まだ産まれていなかった子供たちにも受け継がれている。

 

だが、それと同時に『悲しい出来事だった』『惨たらしい災害だった』と、既に過去完了の形になっているのではないだろうか。
2011年のを振り返ってみると、

  • 6歳の芦田愛菜が『マル・マル・モリ・モリ!』を歌う。
  • なでしこジャパン(サッカー女子代表)がW杯初優勝、ロンドン五輪の出場を決める。
  • iPhone4Sが発売。スティーブ・ジョブズ氏が逝去。
  • ハリー・ポッターと死の秘宝Part2が公開。
  • 島田紳助氏が芸能界を引退。

 

などと、隔世の感を拭えない。
同じように東日本大震災は、過去の出来事として捉えている人も多いのではないだろうか。

 

 


(陸前高田市にて、自分で撮影)

東日本大震災から1ヶ月後、ボクは被災地に入ってボランティア活動をした。
あのときに見た衝撃的な光景は、今でも忘れることはない。
小学校教員として働いているボクは、毎年3月11日になると、子供たちに東日本大震災のことを伝えてきた。
だけど、ある時ふと気付いた。
自分の中でも、東日本大震災は過去の出来事になっていないだろうかと。

 

だから昨年、『がんばろう東北 -10 years later-』と題し、2021年は自分の中で東北地方をもう一度見る年に定めた。
コロナ禍もあって自粛、中止もあったが、それでも何度か東北に足を運ぶことができた。
この記事では、震災から10年経った被災地の現状と、自分の所感を書いていきたいと思う。
なお、これから掲載する写真はところどころにモロが写っています。
不謹慎だと眉をひそめる人もいるかもしれませんが、まだ漢字を読むのが難しい子供たちにも写真を通して震災のことを知る切っかけになってほしいと思い、載せることにします。

 

 

 

 

10年ぶりの被災地へ ー野蒜(のびる)編ー

仙台市から車で約1時間。東松島市の野蒜地区にある、震災復興伝承館。
ここはかつて、JR仙石線の野蒜駅があった場所だ。

 

 

地震発生から約45分後、津波は野蒜駅にも押し寄せた。
その高さは3.7mだったという。
線路が流出するなど被害が大きかった東松島市内の仙石線は内陸へ移動、それに伴って野蒜駅も移設となった。

 

 

現在は、旧野蒜駅のプラットホームが震災遺構として残されている。
遠目に見る感じでは、大きく傷んだ様子はないが、

 

 

画面が大きく破損した切符の券売機が、津波の強さを感じさせた。

 

 

 

 

 

 

 

東松島市は面積の36%、市街地に限れば65%と、浸水地域は被災市町村の中で最大だ。
全壊した建物は5519棟、そして、死者と行方不明者は当時の人口の3%である1133人にも及ぶ。
展示してある写真や映像を見て、涙が堪えられなかった。

 

 

東松島市は、航空自衛隊の松島基地をもつ。
自衛隊の皆さんは、震災直後から復旧作業や支援活動を行ってくださったらしい。

 

 

日本の自衛隊だけではない。
アメリカは震災当日から支援を申し入れ、すぐに大規模なアメリカ軍の災害救助や復興支援であるOperation Tomodachi=トモダチ作戦が始まった。
時の駐日大使いわく、アメリカ同時多発テロの後に、日本の消防隊が救助に駆けつけてくれたとこに起因するらしい。(リップサービスも大いに含まれているであろうが)
テロ直後は次のテロを防ぐため、アメリカ人以外の活動は認められていなかったが、世界で唯一日本人のみに許可が下りたのだとか。

 

 

 

 

国と国との理想的な付き合い方

言うまでもなく、アメリカは第二次世界大戦時の敵国であり、日本に原子爆弾を落とした国である。
だが、あれから80年弱、日本とアメリカは親密な関係を築き、友好国として人口に膾炙している。
勿論、GHQの占領政策が成功したのだという穿った見方もあるのだろうが、何にせよ敵対意識を持ち続けるよりも今の関係の方がよっぽど健全だと考える。

 

ポーランドは第一次世界大戦時の戦場となり、約20万人がシベリアへと逃げていった。
そのポーランド人の孤児を日本は保護し、祖国へ送り返した。
それから70年以上後の阪神淡路大震災のときに、ポーランドは日本人の被災児童を歓待してくれたという。

 

 

トルコはさらに前、明治23年(1890年)に和歌山沖で船が台風で難破したときに、地元の日本人に救護された。
その後、昭和60年にイラン・イラク戦争で日本人がイランに取り残された際、トルコはその時の恩返しにと命がけで救援機を派遣してくれた。
そして、今でもトルコは親日国とされている。

 

 

イランは、かつてイギリスに石油を搾取される状態から脱しようとしたとき、利権を手放したくないイギリスに海上封鎖された。
石油輸出に依存するイランは国家の存亡危機に立たされたが、『海賊とよばれた男』、出光佐三がタンカーで強行突破して、イランと関係を築いた。
その後も両国は友好的な関係を続けていたので、ボクがイランを旅したときは本当に多くのイラン人が心からもてなしてくれた。

 

 

日本は第二次世界大戦の敗戦国なのにも関わらず、世界有数の経済成長を遂げた。
それは決して日本人の力だけによるものではない。世界銀行から多くの借り入れがあった。
日本はそれを活かし、復興を遂げ、今では世界屈指の援助国となっている。

 

日本のパスポートは、ビザなしで渡航できる国が192ヶ国と世界最多らしい。(The Henley Passport Index
ボクが100もの国を旅することができたのも、その恩恵があったからだ。
日本は宗教観や言語など他国と大きく異なるところが多いにもかかわらず、この位置にいるのは、積み重ねてきた実績と信頼の賜物だろう。
そして、それが東日本大震災で多くの協力を得ることに繋がったのだと思う。

 

ボクは、日本という国が心の底から好きで、日本人であるということを誇りに思っている。
これからも、そう思える国であってほしいし、世界から認められる国であってほしい。
そのためには、考え方が違えど互いに認めあう。そして、困ったときには互いに助け合う。
そんな当たり前の綺麗事を当たり前に実践することを、学校の子供たちに伝えていこうと思う。

 

 

 

 

東日本大震災で日本を助けてくださった、全ての国に感謝します。

 

 

 

 



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巡った被災地の現状を紹介して行こうと思ったけど、途中から熱が入って野蒜だけで一本の記事になってしまった。

まだ石巻、南三陸町、気仙沼、陸前高田とあるんだけどなぁ。

・・・・・・毎年3月11日に、一つずつ記事にしようかな。

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